二度目まして

アラサーどころかジャストサーになりました。



動乱の20代後半を駆け抜けつつ、いつかきっとあの日開設したブログを更新するんだ…!と思いながら今日に至った。

そういえば数年前ブログ始めた気がするぞ、更新したろかな、と思いながら恋に仕事に趣味に大忙し。

なんだか今日はゆっくりできるぞ☆と気が向いた日に、今日は更新したろと思ってログインを試みるが、一体どこにどんな情報で登録したかわからなくなり、諦め忘れを繰り返していた。

大体は酒に酔った勢いなので、開設もアルコール有り、したためる文章もアルコール有り、久方振りのログインチャレンジもアルコールの後押しなので、結局はなあなあになってしまう。


記憶の中では2年ほど前に開設したと思っていたブログ、本日運命的な再会を果たし過去の記事を確認したら5年前との表示。

年齢とともに刺激的な出来事が年々少なくなっていくのか、刺激を感じにくい不感症になっているのか、むしろこんなことは瑣末な出来事というくらい刺激が多いのかは定かでは無いが、とにかく5年前ということに衝撃を受けた。せいぜい2年程前だと思っていた。


もしかするとここ以外に2、3年前にライブドアブログを作ったかもしれない。半年前かもしれない。いや2ヶ月前かもしれない。でも絶対作ったんだって!嘘じゃないって!大丈夫!信じて!先っぽだけでいいから!


自分の記憶と情を移した男、これ以上に信じたくても信じられない葛藤はないね。


まぁお察しの通りほぼ忘れかけており、1年おきくらいにログインを試みても弾き返され、チェだぜ!と思いながら酒を煽っていたような気がする。




概ね真実なのだが、唯一ついた嘘を早々に白状する。

恋に仕事に趣味、全然忙しくなかった。

男に振り回されるなんて高校生からの常で、基本的に変わらない日常であったし、日々の中で感じる思いはきっと、他人にとっては些細なことで、ドラマにするには起承転結も序破急も無さすぎた。

シンブログなんてまだまだ到達できるレベルでは無い。

感受性は弱くないと思うが、それを売りに出来る程の抜群の表現力もないし、世の中に絶望してトリッキーなムーブが出来る程繊細でも無かった。






元来文章を読むことは好きだった。

小学生の頃、当時ギリギリ平成初期のジャンプやりぼんは読んでいたし、銀河鉄道999やキャンディキャンディ、里中満智子も夢中になって読んでいた。令和3年に30歳前後の日本人で、上述3作品を小学生で読破した人は、少なくは無いだろうが多くもないのではあろうか。

そんな名作に触れられた幸運もあり、子供向けのたまに挿絵の入った小説を読み始め、中学生くらいには申し訳程度の挿絵も消え去った活字のみの本を楽しめるようになっていた。


ここで断っておきたいのは、当時の自分は決して直木賞だか芥川賞の審査員になれるようなインテリではなく、かと言って皐月賞天皇賞百発百中のようなスクールカースト上位の陽キャでもない。

前世の古傷で四肢中包帯塗れでもなかったし、邪眼が疼くこともなかったし、容姿端麗でも文武両道でもなかった。

本来の使用意図を忘れられた可哀想な安全ピンたちが、支える相手もなく孤独にポツポツと付けられている通学鞄を持っていたり、意味不明な英文が書かれた缶バッヂを意味不明に筆箱にじゃらじゃらとつけてみたり、十数年前の田舎の学生がステイタスになり得ることは一通りこなし、おまわりさんのお世話になる程のハチャメチャはしない。

将来武勇伝を語れるヤンキーにも、生涯趣味に打ち込めるようなオタクにもなれず、至極平凡で誰しもが通る道をなぞるフツーの、ほんの少しだけ文章が好きな子供だった。


だからきっと今、昔も今も自分を楽しませてくれている物書きに憧れているし、憧れに近づけない自分を慰めるように、たまに思い出したようにこんなことをしているのだと思う。



書いたことすらも忘れたようなブログを読んで、5年前の自分がこんな文章を残していたのかと吃驚した。というか書いた?忘れたようなというか、全く記憶にない。

何度か読み返したが、本当に一欠片も内容がない。要約すると、ブログ開設したでぇ〜!でしかなかった。だからなんだ?という内容だった。

それでも、自画自賛になるのは百も承知だが、なんだかおもしろかった。

あとめちゃくちゃてんとう虫好きやんって思った。




思えば、インターネット黎明期は、だからなんなんだ?と思わせる、そんなブログやサイトが溢れていた。何が人気で不人気かわからない、そんな中だからこそ、誰とも共有できないかもしれないけど、自分が好きだと思えるものに出会えた。


昨今のネットニュースを始め、Twitter等は、何が話題になっているかが非常にわかりやすい。ある事象について自分の感じたことを、端的に新鮮な状態で発信でき、様々な立場の人と共有し、議論できる。メリットだ。

死ぬ程どうでもいい事で溢れ返ってもいる。メリットでもデメリットでも無いが、なんだかちょっとイラッとする日もある。


センスある人は、そんな中でもユーモアも、自分と違う考え方の人へのフォローも忘れない。

消費する側も気負いをしない。感覚的に共感したり反論できる。大きな魅力の一部だ。


流行るには流行る理由があるし、ベタにはベタの理由がある。

前回の記事でSNSはちょっと…というような内容を書いた気がするが、今思えば制限された中で抜群のセンスを発揮出来る人への嫉妬心もあったのだと思う。ちょっこり。



かつて娯楽だったインターネットが、ライフラインになりつつある。

話題になったツイートやインスタは知ってて当たり前!の様な、ほんとは別にそんなに興味ないけど、知らなかったら異端扱いされるから抑えとこ…みたいな、そんな雰囲気を感じる。ライフラインの本来の意味とは違うと思うが、人付き合いをそれなりに穏便に済ませる、という意味で、とあるコンテンツというよりもライフラインの一つになったのではないか。もしかしたらもう、そんなこと言ってる奴はオワコンだと言われるかもしれないが。




インターネット黎明期、フラッシュ全盛期と共に思春期を過ごした私は、インターネットは秘密基地のような感覚を持っていた。

もうきっと殆どが秘密基地ではなく、共有スペースなのだろう。


誰もが目につく可能性のある、丸出し剥き出しの公園で遊びながら、蛇イチゴがめちゃくちゃ生える、鬱蒼とした茂みの中の秘密基地で好きなことをしながら、のらりくらりと生きていきますので、皆さんまた5年後にお会いしましょう。




きっと皆さんじゃなくて、5年後の私にだな。





結局5年経っても、だからなんなんだ?と言う文章しか認められない自分が、とっても愛しく思えた。

文章を書くということ

今日からブログを書きたいと思います。

私が学生の頃は、やれブログだ、やれ前略プロフィールだ(年齢バレそう)と大変流行していた。
今はTwitterFacebookSNSと呼ばれるものが主流になってきている。
SNSは知り合いの近況を知るのにとても便利で私も利用している。


が、いまいち物足りない。


今もネット依存のきらいはあるのだが、学生時代ガラケーにかじりつき(スマホなんてなかった)、おもしろ読み物を血眼ドライアイで探していた私は、SNSTwitterのような「呟く 」と言われる量の文章では味気ないのである。
もっとしっかりとした、読みごたえのあるものが欲しくなってくるし、自分でも書きたくなる。

が、いざ自分がFacebookで長ったらしい文章を載せようと思うと、実際に自分を知っている人が見るという恥ずかしさで、アップする直前、あるいはした瞬間に消してしまうのだ。
これはいいかと載せたとしても、なまじ「イイネ!」等があるせいで反応が気になってしまう為、書き終えたというのに落ち着きもしない。私はジャ◯プ作家ではないので、掲載後のアンケートなど気にしたくない。一週間もののウンコが出たような清々しさで、無責任に画面を閉じたい。

様々なネガティブな考えが浮かんでしまい、結局は
「仕事疲れた」
「ベランダにてんとう虫がいた」
等、もう本当にしょーもない、皆さんにとってクッソどーでもいい日常の一コマしか書けないのだ。
大体ベランダにてんとう虫がいたからってなんになる。我が家が港区辺りの超高層マンションの上階にあれば「世界一ガッツのあるてんとう虫」ということで注目の的となり得るが、残念ながら我が家の位置は電線が横切る程度の高さだ。ちょっと頑張ればダンゴムシだって来れそうだ。


ただしどうでもいい情報というのは目に留まらない分、嘲笑されるリスクも低い。万が一悪い意味で笑われたとしても、こちらの開示している情報量が圧倒的に少ないのだから、自分が受けるダメージも然程大きくはない。結局保身に走ってしまうのである。


なので、SNSに書けないこと、自分の興味の対象や思ったこと、感じたことを書くには、こういう場がよいのかと思いウン年振りにブログを立ち上げた。布団時代は万年床だったズボラババアの一念発起である。
ベッドはいいね、たたまなくても許される。ありのままの姿で許される。レリゴーだ。

少し話が脱線しただけでこれだけの文字数なのだから、やはり「呟く」という媒体ではなかなかに難しいだろう。
折角長い文章を書く場を得たのだから、推敲に推敲を重ねて世に送り出すべきなのだろうが、そうするとおそらく「アッーーーー」となって全消しがオチなので、誤字脱字だけをチェックして第一子を産み落とします。

はじめまして皆さん、そしておやすみなさい。